AIC税理士法人
金崎 定男

金崎 定男(かねざき さだお)

経歴
昭和59年3月 関西大学商学部 卒業
昭和63年12月 ライト・ステイト大学 経営学修士課程 卒業(MBA)
AIC株式会社 代表取締役(現職)
金崎公認会計士事務所 代表(現職)
株式会社J-SOX研究所 代表取締役(現職)

資格
税理士(東京税理士会 渋谷支部 所属)
公認会計士

共著
「最新消費税事例選集」(清文社)
「営業譲渡・株式譲渡・合併・更生清算」(第一法規出版)

自分史

昭和35年12月28日午後9時45分大阪市旭区千林にて長男として生まれ、一人っ子として育てられる。両親は千林商店街のはずれの京阪電車千林駅すぐそばのマロン洋装店(婦人服小売)を経営し、住居は店の奥にあった。私が小さいころの千林商店街は、その地域では結構有名で、あの、主婦の店ダイエーの1号店が千林駅前にあり、中内さんが店番をしていたようである。兄弟がいないためよく近所の友達と遊んだ。

稚園は家の近所にある千寿幼稚園の2年保育に通った。あまり鮮明な記憶はないが、結構泣き虫だったと思う。

小学校は大阪市立古市小学校で、友達は商店街で商売している家の子が結構多かった。小学校1年生のときに、ねずみの嫁入りの劇をして主人公のチュ-子(女の子)の役をやった。こう見えても小さいころは、よく女の子と間違えられていた。

中学は旭東中学へ行った。陸上部に入って、短距離をやっていた。

高校は、大阪市立高等学校というところで、大阪市立にもかかわらず、枚方市にある学校である。ここでは体操部でキャプテンをやっていた。大阪市の市立高校が集まる市立大会で団体優勝したのがいい思い出である。

高校のときに何を思ったか公認会計士を目指そうと決めて、準備をはじめた。大学は、そのころ公認会計士2次試験の合格者を多く出していた中央大学の商学部を目指したが、不合格となり、滑り止めに受けた大阪市立大学商学部の2部(夜間部)に行くことにし、昼間は、南森町の関西経理専門学校の1年間コースに入学した。

でも、大阪市立大学の雰囲気が肌に合わず、半年ほどで退学し、翌年関西大学商学部の2部に合格し、関西大学天六学舎での勉強が始まった。


公認会計士受験

そのころの公認会計士の試験制度は、1次試験、2次試験、3次試験と3段階になっており、大学の教養課程を終わっていれば1次試験は免除になるため、ほとんどの人は2次試験から受けていたが、早く合格したかったので、1次試験を受けて大学1年のときから2次試験を受験した。そのころ、2次試験は、だいたい2000時間ぐらい勉強すれば合格すると受験仲間が行言っていたのを覚えている。昼間は、大学の図書館に通い、夜は大学の授業に出席するという生活が続いた。最初独学で勉強していたが、1回目の受験で全く歯が立たなかったので、公認会計士受験の専門学校に通うことにした。

3回生になるときに、夜間部から昼間部への転部試験を受け、天六学舎から千里山の方に移った。もし在学中に2次試験に合格しなければ、どこか企業へ就職するつもりだったので、夜間部では就職に不利だと思った。昼間部に転部してなんとなく普通の大学生になったようで、ちょっと明るい気持になった。

2次試験は、4回目の受験すなわち4回生のときに合格した。半分ダメだと思っていたので、合格の知らせが来た時はとてもうれしかった。たぶん合格ラインぎりぎりの線だったと思う。


青山監査法人

大学を卒業して青山監査法人の東京事務所に入社した。大阪の親元を離れて、初めての一人暮らしが始まった。外資系の監査法人で、現在は中央監査法人と合併して中央青山監査法人となっている。青山監査法人は、そのころビッグ8と呼ばれる世界の8大会計事務所のひとつ「Price Waterhouse」の日本法人で、外資系企業の顧客が多かった。公認会計士試験合格というひとつの目標を達成し、しばらくは漫然と仕事をしていたが、将来監査法人のパートナーになるのか、独立して自分の会計事務所を持つのか、あるいは大阪へ帰って家業を引き継ぐのか、将来のことについて少しづつ考えた結果、次の目標として、海外留学を目指すことにした。いわゆるMBA(経営学修士:Master of Business Administration)を取ろうと言うわけである。勤務先が外資系企業で英語に触れる機会が多く、できるだけ英語が使える仕事を希望し、他の会計士があまりやりたがらないような、通訳のような仕事も積極的に引き受けた。

希望は大きいが、英語力としてはたいした能力がなかったため、TOFFL、GMATなどのMBA留学のための試験の成績は今ひとつだった。

それでも、どうしてもアメリカへ行ってみたかったので、自分の学力と英語力でいけるレベルの大学院を探した。幸いMBAコースのある大学院はたくさんあり、選り好みをしなければ、入学することは可能な状況だった。

ハーバード大学、スタンフォード大学、MITなど当時から有名な大学には到底無理だったが、オハイオ州のデイトンの近くにWright State Universityという総合大学のMBAコースに入学できることになり、2年半働いた青山監査法人をいったん休職してアメリカへと飛び立った。


MBA

MBA(Master of Business Administration)コースへの入学を許可されたものの、私の英語力はひどい水準だった。そこでニューヨーク州にある外国人のための英会話学校で1ヶ月ほど勉強してから、大学へ行った。

さて、大学院生活は住むところを探すことから始まった。車がないため、大学内のアパートを学生センターで紹介してもらい、住むことになった。最初の半年間ほどは大学内のアパートで過ごした後、中古車(日本車)を買って、大学から車で20分ぐらいのところでアパートを借りた。部屋は広く、10畳ぐらいの部屋が2つとバストイレ付で、家賃は7、8万円ぐらいだったと思う。

勉強の方は、やはり英語がたいへんだった。特にBusiness Lawの授業なんかは、出てくる単語が難しく、教授のしゃべっていることが半分も理解できなかった。会計関係の授業は英語が多少わからなくても、既に日本でやっている内容が多いため、だいたいの概要は理解できた。1980年代の終わりで、ちょうどアメリカでパソコンが普及し始めたころにあたり、MBAコースの他にMS-DOS、ワープロソフト、表計算ソフトなどの授業を選択し、パソコン操作の基礎を勉強し、その後日本へ帰国してからも役に立った。

約1年半の勉強で、MBA(経営学修士)の取得に必要な単位を取得し卒業することができた。


自分史 パート2

今(平成17年6月現在)から約3年前、自分史の内容を見て、何人かの方々から「続きを読みたい」という声を聞いていたが、日ごろの忙しさを言い訳にして今までほったらかしだった。今回、一念発起して続きを書くことにした。


留学から帰って

アメリカ留学から日本に帰ってきたのは、ちょうど昭和の時代最後の12月であった。帰国してすぐ、休職中であった前勤務先に挨拶に行き、正式に退職の意思表示をした。留学中は、専門分野の会計だけでなく、経営実務やマーケティングについても多くを学び、これらのことを、現実の経営の中で実践してみたいという強い希望があって、家業を手伝ってみようと決めていた。実家は、千林商店街で婦人服の小売をしていた。両親とパートの従業員が1名程度の小さな小売店であったが、小さい会社ほど経営のすべてが把握しやすく、大きくしていく楽しみもある。

しばらく実家で働いてみて、理想と現実のギャップに大きく悩まされた。経営者である父親と自分との方針の違いなど出てきた。また、すでに60歳近くなっている両親と28歳の息子とでは、親から見れば、子供はいつまでたっても子供でしかなく、また、当時の私から見れば、経営のスピードも遅く、なんとも言えぬ焦りのようなものを感じていた。

そんな中、私の母親が仕入先で階段から落ちて入院するという事態が起きた。くも膜下(くもまっか)出血をともない、一時は命の危険もあった。両親にしてみれば、息子が店を手伝ってくれているため、息子のスピードにあわせて無理をしていたのかもしれない。約1ヶ月あまりの入院の末、無事退院することができたが、これ以上やっても、私にとっても、両親にとってもお互いよくないように思った。ただこの時点で、自分でビジネスを始める気持ちまではなく、就職することにした。両親にしても、せっかく会計士の資格を取ったのであるから、その資格を生かせるような仕事に就くことに、賛成をしてくれた。


再就職

アメリカから帰って半年ほどたった平成元年5月にBBSに就職した。BBSは会計システムを中心にしたシステム開発及びコンサルティングの会社で、公認会計士の資格を持つシステムコンサルタントが、責任を持ってシステム開発を行うというのを売りにしていた。現在ジャスダックに上場している会社である。

もともと、浜松に本拠を置く会社のため、入社して1ヶ月間ほど浜松で研修をすることになった。プログラマーになる予定はなかったが、COBOLなどの大型機用の言語も少し勉強した。研修が終わり、大阪勤務を希望していたが、大阪にはあまり仕事がないため東京での勤務となった。仕事の内容は、主任コンサルタントという肩書きをもらい、主に中堅企業が会計システムや原価計算システムの見直しを行うときのアドバイスを行い、システム開発段階の基本設計部分までを会社と一緒に作っていくというようなことを行っていた。また、会計ソフトの評価や、管理会計に関する研修プログラムの作成や、その講師の仕事なども行った。

大変自由な雰囲気のよい会社であり、給与水準も居心地も悪くなかったが、東京の仕事が中心であったため、平成3年3月に退職させていただいた。退職を決めた時点で、他社に行くつもりはなく、地元大阪で自分で会社を興そうと決めていた。


新会社スタート

ビジネスをはじめるにあたり、明確なプランは何もなかった。ただ自分で会社をやってみたいという気持ちが強かった。当初は、会計事務所をするつもりもあまりなかった。それで、アメーバコーポレーションという有限会社を設立し、本町に4坪ほどの貸事務所を見つけてきてビジネスをスタートさせた。

事務所探しは、いろいろと苦労した。なんといっても、売上見込もはっきりわからず、お金もあまりなかったので、できるだけ安い家賃でおさまるところを探すのに苦労した。1階が居酒屋の間口の狭い縦に細長い雑居ビルの2階の1室であった。薄暗い部屋であるが、一応窓が1つあった。窓を開けると隣のビルのコンクリートの壁に手が届いた。

さて、商売の内容は、前職で少し経験した経営コンサルティングの仕事をすることにした。経営コンサルティングというと、なんとなくカッコよさそうなイメージがあった。薄いアタッシュケースか何かを持って、日本中を飛び回っているようなイメージであった。ただ、実際にどうやってお客様を見つけるかがさっぱりわからなかった。そこで、経営コンサルティングのフランチャイズ(FC)を展開している会社とFC契約を結び、研修教材やマニュアルなどを仕入れて、営業方法などについても本部の指導を受け、何とか業務をスタートさせた。

さて、経営コンサルティングと言っても、いろいろな分野があり、どのようなコンサルティングを行うかであるが、先ほどのFC契約の内容から主に社員研修や2世経営者向けの研修などを主な商品にしていた。そのようなコンサルティングサービスを受けていただくためには、まず、当社の存在を多くの会社に知ってもらわねばならない。今でこそ、いろいろな人のつながりができてきたが、当時の私は、大学卒業以来、仕事のほとんどは東京であったこともあり、大阪に人脈はほとんどなかった。そこで、企業の名簿を手に入れ、ダイレクトメール(DM)により、当社のセミナーに参加してもらい、セミナー受講者の中から興味を持っていただいた方に、個別研修の案内をしたり、また、地元金融機関と提携し、その金融機関の顧客を集めて、集合研修を行ったり、といった活動を行っていた。

この時期、営業活動の重要性、大変さ、また、面白さを勉強できたと思う。セミナー勧誘のDMにしても、人がいないので、自分で案内をワープロで作り、1枚ずつ封筒につめて発送する。面識のないところからそんなDMが届いても、通常はあまり気にかけてもらえないので、「セミナーのご案内をお送りしたのですが、ご覧いただけましたでしょうか。」などと、DMが到着したころを見計らってフォローの電話を入れる。たいていは、社長はいないか、居留守であるが、たまに話ができても、あまりよい反応はもらえない。1日に200件とか300件とか自分で目標を決めて、電話をかける日々が続いた。

2ヶ月ぐらい経って、まだ、売上はゼロであったが、人を雇うことにした。元新聞記者をしていたという私の父親ぐらいの年代の男性(Kさん)を1名雇い入れた。私自身あまり、しゃべるのが得意ではないので、そのような私の欠点を補ってくれそうな気がした。

当初私の給料は、15万円か20万円ぐらいに設定していた。Kさんの給与は、25万円か30万円ぐらいだったように記憶している。あいかわらず、いろいろと営業活動を工夫しながら活動していたが、思ったほど売上は上がらず、開業1年ぐらい経っても赤字の状況が続いた。コンサルティングの仕事というのは、時間単価が高いので、儲かるように思えるのだが、継続受注が難しく、大変しんどい仕事であった。当時の私の経営者として、また、コンサルタントとしての未熟さもあったかもしれない。

会社を始めたときに、手持ち資金が300万円あったが、上記のFC契約による加盟金やマニュアル代、その他経費ですでにFC本部に対して初年度だけで1,000万円ぐらい支払っていた。当初の予定では、初年度2,000万円ぐらいの売上を目標としていたが、実際にはその10分の1の実績も達成できない状況であった。開業時に金融機関からも900万円ほどの借金をしていた。このままでは、給料も払えなくなってしまう。Kさんには、涙を呑んでやめていただかざるを得ない状況になってしまった。また一人でやっていくことになった。


会計事務所として

そもそも、会計事務所としての仕事のノウハウはまったくなく、また、やるつもりもなかったが、たまたま知り合った会社の社長から、当方から営業したわけでもないのに、会計顧問をしてほしいという依頼が舞い込んだ。会社を始めて半年ぐらい経ったころだったと思う。自信はなかったが、お引き受けした。調べながらではあるが、仕事も何とかこなしていった。(この会社は今でも顧問契約を継続いただいている。)

そうこうしているうちに、2年目以降、紹介とか何かで、パラパラと、会計事務所としての仕事が増えていった。多くの会計事務所は、記帳代行の請負をしていたが、私は、コンサルティングの営業活動もしながら、お客様の帳簿を入力する余裕まではなかった。仮に私が入力するとかなり高い料金をもらわないと採算が取れないので、極力入力代行は行わず、会社側で手書きの帳簿を作ってもらうか、もしくは会計ソフトを導入いただくように薦めた。当時はまだ、それほど安い会計ソフトはあまり出回っておらず、パソコンを使っている中小企業も今と比べるとそれほど多くなかったので、手書き帳簿の作成を指導するパターンが多かった。

従業員も少しずつ増やしていった。といっても、いきなり正社員で雇うことはせず、まずはパート・アルバイトで雇用し、顧問先の増加に応じて、希望者は社員に引き上げていくというやり方にした。会計事務所の仕事が増えていくにつれ、経営コンサルティングの仕事は減少していった。3年ぐらいで逆転し、FC契約は5年間であったが、4年目ぐらいで契約を解約させていただいた。解約時点で、加盟時の借入金が数百万円残り、売上も思ったほど獲得できず、結果的には、このFC契約は失敗であったが、営業面での勉強と実践の経験ということでは、大変役立った。


税務調査

開業して2年目か3年目ごろであろうか。まだ経営は赤字だったが、税務署から連絡があり、税務調査に来たいとの連絡があった。私と同年代ぐらいの若い事務官が一人で調査に来られた。

何もごまかしはしていなかったので、修正申告にはならなかったが、消費税の申告につき、申告書の書き間違えを発見していただき、5万円か10万円ぐらいだったと思うが、消費税を還付してもらった。わざわざ、調査に来てもらい、還付を見つけてもらったというのは、税務署とすれば、還付であっても間違いを正すのは当然といえば当然であるが、還付の場合にはわかっていても言わない場合もある。今回のケースは、当社の財務内容をみて、あまりにひどかったので、よほどかわいそうに思ったのではないかと勝手に推測している。その後、今日に至るまで、1度も税務調査は受けていない。


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